行き先も見えず、多岐亡羊

おじさんがダラダラ書いている日記的なモノ

生きる執念

 

池上彰さんの番組を見ていたら、小野田寛郎氏のことを特集していた。1974年にフィリピンから帰還した残留日本兵小野田少尉。その回のゲスト、高島礼子さんが「 恥ずかしながら帰って参りました。 」 の人ですよね? と言ったら、池上さんから「 それは横井庄一さんです。 」 とツッコミ。

 

そうなんだ? 私も高島さんと同じく、どっちがどっちだか、全然分からない。当時、未就学児だし。再現ドラマや特集番組で見て、遭遇した青年、鈴木紀夫氏のことなど、少し知っている程度。何で今更、オノダさん?

 

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1942年 ( 昭和17年 ) 、満20歳で徴兵検査を受け、陸軍入営。英語・中国語が堪能だったことから、選抜され、スパイ養成所の陸軍中野学校入校。ここでゲリラ戦、隠密行動や夜襲作戦などの特殊任務を教育される。

44年12月、フィリピン・ルバング島に着任。翌年2月の米軍の砲撃で部隊壊滅。3名の部下とともに、ジャングルに入り、遊撃戦を展開した。ジャングル生活は29年にも及ぶ事となった。

 

観察眼に長け、頭も切れる。必要な準備も怠らない。食料の確保、保存、現地調達の食糧をいかに調理するか。病気・怪我への対処。水は必ず煮沸、29年間、病気もしなかった。この地域では、年4回程度、地元民で編成された掃討部隊が山狩りを行った。しかし、捕まらなかった。限られた武器・弾薬で、いかに反撃して、いかに逃げるかの術を知っていた。

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終戦を知らなかったから戦闘を継続した 」 訳では無いようだ。米軍が撒いた終戦のビラを何度も手にしているし、ラジオを入手し、アメリカの放送を聞いていた。3人の部下のうち、終戦5年目に投降した赤津一等兵によって3人の存在が公になり、小野田、島田、小塚の家族から写真入りの手紙も届けられた。また、日本の捜索隊があえて残した新聞から、終戦後の日本の経済発展も知っていた。でも、小野田はこう考えた。「 今ある日本政府はアメリカの傀儡で、亡命政府が満州にある。これは米軍の計略だ。 」ソ連軍の満州侵攻で、関東軍が壊滅したことまでは知らなかった。だから、日本の捜索隊の呼掛けにも応じなかった。なにしろ、「 アメリカの手先の日本人 」だから。小野田はスピーカーで呼びかける実兄の姿も陰から観察していた。しかし、「 よく似た他人を連れてきた 」 と思ったようだ。

 

「 神国日本は負けない 」 「 上官の命令は絶対 」 「 終戦の報は米軍の策略 」 その考えに凝り固まって、情報を素直に受け容れることが出来なかった。あるいは、慣れた日常から脱却することが出来なかったのかもしれない。少し思考方法を変えれば、3人の掃討のために米軍がこれだけ手間暇掛けるはずも無いことは分かるだろう。結局、誤った判断で、島田・小塚、二人の部下が終戦後異国の地で命を落とすことになり、30名以上のフィリピン人が命を奪われた。

 

小野田を責めるのは簡単。確かに、その行動はエゴであり、視野が狭く、統率者としての思慮に欠けていた。そして、意味の無い目標の達成に邁進した。

でも、大戦末期には、日本自体が思考停止していた。私はあの時代の日本が狂っていたとは思わない。開戦と戦争継続にも日本なりの理由があったと思っている。しかし、末期においては、広い視野・多様な考察、柔軟な思考に欠けていたことは確かだと思う。明らかな劣勢にも拘わらず、終戦を先延ばしにした結果、沖縄は地上戦となり、国土は焼け尽くされることになった。もし、昭和天皇のご聖断が無ければ、小野田と同じく、日本人はずるずると、いつ終わるとも知れない本土決戦に突入していただろう。

 

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小野田の苦難は、29年のジャングル生活よりも、帰郷した後にあったのかもしれない。帰国時に「 天皇陛下万歳 」と叫んで、顰蹙を買う。政府からの見舞金を靖国神社へ寄付して、これも顰蹙を買う。異国で30年間保ち続けた価値観を捨てることは出来なかった。リベラル化したメディアからは「 軍国主義の亡霊 」と看做され、大いに叩かれたようだ。

 

故郷には、父母や兄も存命だった。知人も残っていた。しかし、皆顔は同じなのに、中味は別人になっていた。家族だけではなく、日本人すべてが違う民族になっていた。まるで、アメリカのホラー映画 『 盗まれた街 』 のように。小野田が帰りたかった祖国はもうどこにも無かった。居場所の無かった小野田は、帰国の1年後にブラジルへ旅立った。

 

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小野田氏が取り上げられるというのは、今の時代に、その強さと逞しさが求められているからだと思う。合理的でストイックでプロフェッショナル。求道者と言えるかも。一切の妥協を許さず、目標達成のための筋道を明確に掴んでいる。小野田氏は、今の日本人には生きる力が足りないと感じていた。そのため、晩年には、日本の子供たちのために、生きる術を考える塾を開いた。

 

『 人間、目標があれば生きられる。もし、絶望の淵に追いやられたら、どんな小さなことでもいいから目標を見つけることだ。その実現のために生きることだ。死を選んではならない。なぜなら、人は 「 生きる 」 ために生まれてきたのだから。 』

小野田寛郎『 生きる 』 より